プロフィール

へー

Author:へー
生まれも育ちも愛媛県ですが、大学以降北海道を終の棲家ときめこんでいます。
ついでに小学校教諭を自分の天職と思い込んで子どもたちと過ごしてきました。辞める気はまったくありませんが、2008年3月まで青年海外協力隊員としてドミニカ共和国で活動してきました。暑いところが嫌で北海道に移り住んだはずなのですが、常夏のカリブ海で問題なく適応できた自分が不思議でした。2008年4月からはまた教壇に復帰しています。
協力隊に参加するために駅前留学をしていたのですが、ドミニカ共和国は公用語がスペイン語。せっかく覚えた英語は…。そして派遣中に肝心のNOVAは破綻…。英語もスペイン語も使わないとどんどん忘れさられていきます。悲しいですね。
趣味は読書、スキー、ゴルフ、献血、etc。ドミニカ共和国滞在中はダイビングにはまっていましたが、北海道ではとてもとても…。現在、一番の趣味はダイエットです。

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トクノフミトシ4コマまんが

北海道の小学校で教師をしています。日々の生活の様子などを気ままに綴っていきます。 2006年4月から2008年3月まで青年海外協力隊に参加していました。ドミニカ共和国について知りたい方は過去記事をどうぞ。

骨髄バンクでのドナー体験


駒ヶ根訓練所への入所にあたり、青年海外協力隊を受験しようと決意した大きな要因の一つである「骨髄バンクでのドナー経験」について記録しておきたいと思います。

〜登録〜

骨髄バンクに登録したのはもう7〜8年前になるでしょうか。ちょうど、臓器提供意思表示カードを持とうと決めた時期で、どうせならということで骨髄バンクにも登録しました。献血魔の僕は当然のことながら献血ルームで採血をして登録しました。登録をするのにも骨髄液を採らなければいけないと思っている人が多いようです(恥ずかしながら、当時はその一人でした。)が、実際は15ml程度を採血するだけ。ビデオを見たりはしましたが、拍子抜けするくらい簡単に登録することができました。

〜通知〜

登録してしばらくは、ドナー通知を今か今かと心待ちにしている毎日でしたが、そんなに簡単に型が一致するわけもなく、骨髄移植財団から来るのはいつもの機関紙だけでした。骨髄を提供するチャンスはないのかなとやや諦めかけていたころ、1通の大きな封筒が骨髄移植財団から届きました。今までに見たことのないサイズ、もしかしたらと逸る心を抑えつつ、封筒を開いた中にはドナー候補として選ばれたとの通知。苦しんでおられる患者さんには本当に申し訳ありませんが、思わずガッツポーズが出てしまいました。これが9月中旬頃です。

※骨髄移植財団では患者さんとドナーが特定できないようにしているので、何年に提供したのかということと具体的な病院名などは伏せさせていただきます。

〜コーディネート開始〜

封筒の中にはコーディネートを進めてよいか、それとも中止するかを選択する文書が入っていました。もちろん、コーディネートを進めるにチェックを入れて即返信。合わせて、健康に関する問診票のようなものも書きました。ただ、この時点では他にもドナー候補者が4〜5人いることがあるので、自分がドナーになるとは限りません。最も白血球の型が近い人がドナーになるわけですが、このときは自分が選ばれると信じて疑っていませんでした。
コーディネートを進める上で最も重要なことは家族の同意。既婚者なら配偶者、未婚者なら両親です。本人にいくら提供の意思があってもこの家族の同意が得られなければコーディネートはそれで終了です。ですから、同封されていた文書の中にも家族の意思はしっかり確認しておいてくださいということがしつこいくらいにかかれていました。最終同意の際には家族も同伴して、一緒に署名してもらわなければいけないので、確実に同意を取り付けなければいけないのです。

〜両親に〜

その晩、さっそく実家の両親に電話をしました。本当は直接会って話をできれば一番なのですが、離れて暮らしていたので実家に帰っている時間が取れませんでした。父親の方は「人のためになることだし、お前がやりたいんならやれば良いんじゃないか。」ということで比較的すんなりと了解を取り付けることができました。骨髄移植にかかわって、日本では大きな事故はおきていないものの、当然後遺症が残るようなことになったり、死亡したりする可能性が皆無というわけにはいかないので、母親のほうは最初は難色を示していました。ただ、叔母さん一家が看護師一家で、そちらに相談したらしく、事故の可能性が極めて低いこと、骨髄移植の重要性について聞いたようで、渋々ながら同意してくれました。感謝感謝。この家族の同意が最終的に取り付けられずに断念にいたるケースが多いと聞いていたので、あまり苦労せずにクリアできたのは非常に幸運でした。

〜ドナー決定〜

僕の住んでいる地域で骨髄提供ができる病院は3箇所。そのうちのどこかで、より精密な適合検査をおこなうための採血と、骨髄移植についての医師からの説明を受けることになりました。田舎に住んでいたため、どの病院もちょっと遠く、しかも平日にしかできないということで、これが少し面倒でした。とりあえずこの採血は自分の好きな病院を選べたので、最も近いところにあった大学病院にしました。採血の当日に僕を担当してくれるコーディネーターのOさんと初めて会いました。大変落ち着いた物腰の女性で、対応も非常に丁寧だったので、安心してコーディネートを進めていただくことができました。この適合検査で、ドナー決定かコーディネート中止の通知がくることが決定します。採血のあとに調整医師の方から骨髄移植についての詳しい説明を受けます。リスクや事故の可能性が0であるとはいえないこと、最終同意前ならいつでも辞退することができることなど、丁寧に説明していただきました。この日はこれで終わりで、あとは結果待ちでした。この間、毎日毎日ドキドキしながら待っていましたが、見事ドナーに決定しました。

〜最終同意〜

最終同意には、父親にわざわざ実家から出てきてもらって参加してもらいました。僕の住んでいたところで仕事もあったついでなので、ちょっと文句を言いながらも来てくれた父に感謝でした。この最終同意には調整医師のコーディネーターの方の他に,別の医師の方も参加されました。この方は調整医師から正しく説明がなされていたか、本人の意思を尊重して誘導するようなことがなかったかなどをチェックする役割です。この第三者は特に希望がなければ、財団のほうから医師や弁護士の方などが派遣されるそうですが、自分で他の親族や友人などを選んで同伴することもできます。この期に及んで反対されたらどうしようと少し心配でしたが、父は特にこれといった質問もせずに、割とあっさりと最終同意書にサインをしてくれました。

〜ボランティアと仕事と〜

骨髄提供には交通費などが支給され、病院の費用などは全て患者さん持ちになるので自己負担といった部分はあまりありませんが、平日におこなわれる検査などが意外と多く、そういった場合に仕事を休んだときの保障はありません。基本はあくまでもボランティアなのです。幸い、教員ということで、比較的時間のやりくりはできること、手術の時は骨髄移植特別休暇で休めること、職場の理解があったこと等もあり、さほど苦労せずに各種検査などに臨むことができましたが、家族の問題と合わせてこの仕事の都合という面で断念せざるを得ない人が多いことも事実のようです。
僕にとって一番の問題だったのは、当時6年生を担任していて、骨髄の提供時期が2月か3月頃になる予定だったことです。悩みましたが、2月中であれば何とかできるだろうと判断して、「3月は卒業式の関係でお断りしなければいけないので、何とか2月中でお願いします。」ということをコーディネーターの方に伝えました。患者さんの命と自分の生徒、天秤にかけられるものではありませんが、卒業式に担任がいないというわけにはいかなかったからです。幸い、提供は2月中旬となり、卒業式1ヶ月前の忙しい時期に学校をあけることについて、生徒や保護者の理解も得られたので無事に提供にすすむことができました。

〜準備期間〜

ドナーになることが決まればすぐに提供できるのかと思っていましたが、患者さんに対する措置や準備などもあり、最終同意から提供までは2ヶ月ちょっとの時間がありました。その間に健康診断を受けたり、手術のときの輸血用に自己血の採取などをおこないました。自己血を使うのは手術のリスクを限りなく低くするためです。採取量は人によってまちまちですが、ぼくは400mlとられました。これは普段から献血をしていた(主に成分ですが)ので、いつものことくらいの感じでした。
最終同意のあとに患者さんの住んでいる地域と性別、年代だけを教えてもらいました。なんと、男の子で10歳前後とのこと。自分の目の前にいる子どもたちと同じ年代です。僕の生徒たちはいつも元気よく遊びまわっていて、少し遠慮しろというくらいの勢いでしたが、その子はいくら希望してもそうできない環境にあったのです。自分の職業と患者さんの関係、単なる偶然ですがこれは自分に与えられた使命なんだろうなと思いました。相手がどんな人でも気にはしませんでしたが、事故や健康管理の失敗など、自分の責任で骨髄提供ができなくなるような事態だけは絶対に避けなければいけないなとこのとき本当に本当に強く思いました。
時期が冬だったので最も気をつけなければいけなかったことは風邪を引くこと。毎年のように風邪を引いていた僕ですが、提供手術までの間の健康管理には細心の注意を払いました。過去これほど健康について考えた時期はなかったというくらい気を使いました。お酒は飲みすぎなければいいよといわれていたのですが、忘年会を最後に手術の日まではきっぱりと酒を絶ち、一滴も飲みませんでした。お酒好きには大変苦しい期間でしたが、2ヶ月弱だからと自分に言い聞かせて我慢していました。特に新年会とかが辛かったですね。そんな生活をしているうちにいよいよ入院の日を迎えました。

〜入院、そして提供〜

≪1日目≫

入院手続きは昼近くからだったので、朝のうちは仕事をして職場と子どもたちにあいさつをして出かけました。実家が遠いので両親は来ませんでしたが、近くに住んでいる叔母さんと妹が顔を出しに来ました。叔母さんは現役の看護師で、病室の様子などをいろいろチェックしていました。部屋は個室でした。健康なドナーの人が大部屋に入ると周りの患者さんに気を使ってしまうのでということでした。
みんなが帰った後は、担当医師の回診があり、院内コーディネーターの方から今後の日程についての説明がありました。余談ですが、この院内コーディネーターの方がその辺のモデルなど足元にも及ばないような目の覚めるような美人で、健康診断などのたびにお目にかかれるのが非常に楽しみでした。午後からは以前におこなった健康診断の内容とまったく同じ内容で健康診断をおこない、手術に臨める状態か細かくチェックを受けました。僕のいた病室では携帯も使えたので非常に快適でした。素晴らしく暇なことを除けば…。

≪2日目≫

いよいよ手術当日。朝から看護師さんが体温をはかりに来たり、医師の回診があったりしながら着替えてその時を待ちました。手術室に入って、まずは全身麻酔をかけられました。すぐに自然に寝られるからといわれて、なるべくがんばって起きて手術の様子を記憶しておこうと思っていたのですが、気がついたときには病室のベッドの上でした。というわけで、手術自体についてはまったく何の印象もありませんでした。この日も叔母さんと妹が来てくれていましたが、初めに起きたときはまだ意識がはっきりしていなかったようで、何か訳のわからないことを言っていたそうです。しばらくして意識がはっきりしてくると、体がだるいのはいいのですが、麻酔をかけていたために尿管カテーテルを入れられていたので、これの違和感がひどくて大変でした。おまけに強制的とはいえ、眠らされていたので夜は眠れないし、さすがに手術直後で腰は痛いしで、長い夜になりました。

≪3日目≫

違和感満載の尿管カテーテルは朝のうちにとってもらいました。が、しかし、この尿管カテーテルを抜くときの痛いことといったら腰の痛みの比ではありませんでした。声を上げたりはしませんでしたが、思わず泣きたくなりました。用足しの際の痛みは1日・2日で取れましたが、しばらく違和感が残ったの大変でした。そのあと、看護師さんによる採血や医師の診察などもありましたが、基本的には暇な1日でした。昼過ぎにはもう病院内を歩き回っていましたが、さすがに腰がちょっと痛かったです。まあ、痛みがひどい人だとすぐには動けないこともあるようなので、全然良いほうだとは思いますが。仕事も運動もしていないのでこの日もやはりなかなか寝付けませんでした。

≪4日目≫

朝、医師の診察を受け、退院許可を貰い、さっさと退院してきました。というのも、この日が最後の参観日で、授業はさすがにできませんが、卒業式に向けての学級懇談だけはやっておかなければいけなかったからです。学校まで車を運転していきましたが、30分を越えたあたりからだんだん腰が痛くなってきて、学校に着く頃にはちょっと具合が悪くなっていました。それでも、しばらく休んで学級懇談に臨みました。4日間も卒業間近の大事な時期に休んだにもかかわらず、保護者の方たちが、たくさん労いの言葉を掛けてくださったのがうれしかったです。自分では気がつかなかったのですが、懇談の途中で顔色が悪くなってきたらしく、座って休んだりしながら、何とか懇談を終わらせることができました。

〜手紙〜

移植手術が成功したかについて教えてもらうことはできません。なんとなく成功したらしいというような感じで話をされてはいましたが。骨髄移植推進財団の規定では術後1年以内に2回までの手紙のやり取りが許可されていますが、手術が失敗していたらと思うと自分から手紙を書くわけにもいかず、うまくいっていれば良いなと願っているだけの日々でした。半年以上が経ち、手紙を貰うのを諦めかけた頃、財団からちょっと厚目の封筒が届きました。その中には3通の手紙が。患者さん、ご両親、そしてご家族の方からのそれぞれ心のこもった、自分には過分な言葉の綴られていた手紙でした。手術が無事に成功したこと、体育の授業に参加できるまで回復したことなど、涙が出るくらい嬉しい内容でした。そして、患者さんとご両親に1通ずつの返信を出させていただきました。最大の感謝を込めて。いただいた手紙は何度読み返しても涙腺が緩んできます。一番の宝物の1つです。

〜最後に〜

手術後、本格的に運動ができるようになるまで1ヶ月くらいかかりました。日常生活に不自由がなくなるまではすぐだったのですが、やはり針を刺したところが運動をすると少し痛んだためです。「痛かったですか?」という質問をされますが、もちろん痛かったです。「また依頼がきたら、提供しますか?」ということも聞かれます。こちらには即答しています。「もちろん、します。」と。

仕事、家族の同意、痛み、大変なことはたくさんあります。でも、得られる充実感、達成感はとても大きいのです。不適切な表現かもしれませんが。自己満足かもしれませんが、誰か自分の知らない、他の誰かの助けを待っている1つの命を助けられた・助けられたかもしれないということに胸を張りたいのです。

ダラダラとした長文を最後まで読んでくださったあなたに感謝を込めて。